1. はじめに
2021 年 2 月 1 日にミャンマー国軍がアウン・サン・スー・チー氏その他国民民主連盟(以下「NLD」といいます。)関係者を拘束した ことに端を発した、ミャンマー国軍(以下「国軍」といいます。)の一連の行為による政権掌握(以下「2021 年 2 月政権掌握」といいま す。)は、国際社会に衝撃を与えました。同月 5 日、国連安全保障理事会は「深い懸念」を表明するとともに、同月 11 日、米国政府 は国軍関係者に対して経済制裁を発動しました。また英国・カナダも制裁を発表し EU も制裁の意向を示しています。その後、抗 議デモ鎮圧として行われた国軍の行為の結果、死者が出たことについて、日本政府も非難声明を出しています。このように現在 も、ミャンマー情勢は日々刻々と変化しています。
こうした国軍による政権掌握の正当化根拠として、国軍側は、2020 年 11 月に実施されたミャンマー連邦議会総選挙(以下「2020 年総選挙」といいます。)に関して不正があったことを挙げ、ミャンマー連邦共和国憲法(以下「2008 年憲法」といいます。)に基づく 緊急事態宣言を行ったとの説明をしています。
ミャンマー固有の歴史的経緯等も背景に、ミャンマー国軍の法的な位置づけや緊急事態宣言の効果など、ミャンマー国外では 状況の理解が難しい部分も少なくありません。本稿では、2021 年 2 月政権掌握に関する前提知識として、ミャンマー国軍の位置 づけを含む 2008 年憲法が定める国家体制の概要(下記 2)や選挙制度(下記 3)、緊急事態宣言(下記 4)について解説します。 本稿は 2021 年 2 月政権掌握に関して特定の意見、特に政治的な見解を述べることを意図するものではありません。他方、本稿 執筆者はミャンマーとつながりをもつ一個人として、関係者間で話し合いを通じて事態が平和裏に解決され、ミャンマー国民の平 穏な生活が一刻も早く取り戻されるとともに、民主的な手続を通じてミャンマー国民が真に支持する国家体制が実現されることを 切に願っています。また、本稿は、2021 年 2 月 24 日時点で得られた情報を前提に記載しています。
2. 2008 年憲法が定める国家体制の概要
(1) 制定の経緯
2008 年憲法の内容を理解するには、ミャンマーの独立の経緯やその後の歴史を理解する必要があります。
ミャンマー(当時ビルマとも呼ばれていました)は、第二次世界大戦後の 1948 年、英国から独立しましたが、その際には、アウン・ サン・スー・チー氏の父親であるアウン・サン将軍が率いた国軍が大きな役割を果たしました。その後、アウン・サン将軍は暗殺さ れますが、国軍は、ミャンマーの政治経済において大きな権限を与えられていました。国軍のクーデターによるビルマ式社会主義 体制が成立し、1974 年には憲法も定められています。1988 年には民主化運動が高まるも、国軍がクーデターを起こしてこれを鎮 圧し、国家法秩序回復評議会(後の国家平和発展協議会)による軍政時代となりました。その後 2000 年代になり、ようやく国民会 議 1 が関与して憲法の基本原則が定められ、憲法草案が作成されました。
2008 年、国民投票による承認が行われ、全 15 章、457 の条文からなる 2008 年憲法が発効しています。
(2) 国家統治の枠組み
2008 年憲法が定める国家の基本的な統治の枠組みは以下の通りですが、同憲法では、基本的に立憲民主主義国家としての 統治が想定されていたと理解されます。
複数政党制民主主義である(7 条)。
ミャンマーは連邦国家であり(8 条)、7 管区・7 州からなる。連邦立法管轄事項と管区・州の立法管轄事項が 2008 年憲法末 尾のリストにおいて定められている。
立法、行政、司法の分立が定められている(11 条 1 号)。
連邦議会は二院制とする(12 条)。人口ベースで選出する人民院(定数最大 440 名)及び 7 管区・7 州から同人数の割合で選 出する民族院(定数最大 110 名)から構成される。議員の任期は 5 年である(119 条、151 条)。
国家元首は大統領とする(16 条)。大統領の資格要件として、本人、両親、配偶者、子供とその配偶者のいずれかが外国国 民であってはならない(59 条 6 号)。
大統領は、所定の要件を満たす者を連邦大臣として任命することができる(232 条)。
但し、上記 59 条 6 号は、アウン・サン・スーチー氏の配偶者が英国人であることから、同氏が国家元首となることを妨げる目的 で制定されたとも言われています。
(3) ミャンマー国軍
前記(2)の民主主義国家としての統治の枠組みを前提としつつ、2008 年憲法は、各機構の重要な部分において国軍の政治関与 を定めています。その要点は以下の通りです。
国家の基本原則の 1 つとして、国軍の国民政治への参画を可能とする旨を定める(6 条)。
大統領を選出するための大統領選出委員会は、連邦議会議員による 3 つのグループ(人民院、民族院及び国軍出身議員) から構成し、各グループが副大統領 1 名を選出する。副大統領 3 名の中から、大統領選出委員会が投票により大統領を選 出する(60 条)。
人民院定足数のうち、軍人議員が最大 110 名を占める(109 条)。民族院定足数のうち、軍人議員が 56 名を占める(141 条)。 管区・州議会においても軍人議員が全議席の 4 分の 1 を占める(161 条)。
国家の裁判所として、①連邦最高裁判所、管区・州高等裁判所以下の裁判所、②軍法会議、③憲法裁判所を組織する(293 条)。
国防のために最も肝要な軍事力は、国軍である(337 条)。
(4) 国軍司令官
国軍の長として、国軍司令官の各種権限が 2008 年憲法に定められています。なお、国軍司令官(及び国防治安評議会)は、後 記 4 の緊急事態宣言においても重要な役割を果たすことが定められています。
国軍司令官は、すべての武装組織の長である(20 条)。
国軍司令官が各議院の軍人議員を指名する(74 条)。
国防治安評議会を大統領、副大統領 2 名、人民院議長、民族院議長、国軍司令官、国軍副司令官、国防大臣、外務大臣、 内務大臣及び国境大臣から構成する(201 条)。
大統領は、連邦大臣任命の際、国防大臣、内務大臣及び国境大臣については、国軍司令官が任命した適切な軍人の名簿 を受領する(232 条)。
大統領は、国防治安評議会の提案と承認により、国軍司令官を任命する(342 条)。なお、国軍司令官の任期や解任等の定 めは 2008 年憲法上設けられていない。
軍法会議では、国軍司令官による決定が最終的なものとなる(343 条)。
(5) 選挙・政党
2008 年憲法は、選挙及び政党に関する若干の規定を置いています。それぞれの具体的な内容は、各法律にて規定されていま す(後記 3 参照)。
大統領が連邦選挙管理委員会を組織する。委員長を含む最低 5 名の委員からなる(398 条)。
連邦選挙管理委員会が議会選挙を実施する(399 条)。
選挙に関する手続等については、連邦選挙管理委員会の決定及び措置が最終的なものである(402 条)。
政党は、政党として法律に沿って登録されなければならない(405 条)。
(6) 憲法改正
2008 年憲法は、憲法改正について、改正内容の重要性に応じて 2 種類の手続を定めています(436 条)。
憲法のうち、国家の基本的枠組み、国軍の関与、緊急事態宣言、及び憲法改正について定める所定の各条文の改正は、連 邦議会総数の 75%を上回る賛成を得た後、国民投票によって有権者の過半数の票を得なければならない。
それ以外の条文の改正については、連邦議会総数の 75%を上回る賛成を得なければならない。
3. 選挙制度の概要と過去の総選挙
(1) 選挙制度の概要
前記 2(5)の 2008 年憲法の規定に基づいて、選挙管理委員会法、各議院の選挙法、及び政党登録法により選挙手続が定めら れています。
選挙管理委員会法は、選挙管理委員会の組成及びその権限について定めるものです。また、各議院の選挙法上、人民院・民 族院のいずれも小選挙区制(1 選挙区から 1 名の議員を選出する)による議員選出が想定されています。
政党登録法は、選挙管理委員会に対する政党の登録要件・手続等を定めるものであり、その概要は以下の通りです。
15 名以上の者は、選挙管理委員会に党の組成を申請する。選挙管理委員会が許可した場合、党の代表者を選出する(3 条)。
党を組織する者の資格要件の 1 つに、有罪判決を受けていないことが含まれている(4 条)。
党代表者は、政党として活動するため選挙管理委員会に登録する(9 条)。
選挙管理委員会は、政党が所定の要件を満たさない場合、登録を解消し当該政党を解散させる(12 条(b))。
同法の施行に関しては、選挙管理委員会の決定が最終的なものであり、如何なる裁判所においても手続をとることはできな い(20 条)。
選挙管理委員会は、政党が法令を遵守しない場合、3 年間登録を拒否することができる(24 条(c))。
(2) 過去の総選挙
前記(1)の選挙制度を前提に、ミャンマーでは 2008 年憲法の施行後以下の通り総選挙が行われてきました。
2010 年 11 月:2008 年憲法に基づく第 1 回総選挙。NLD は選挙をボイコットする旨表明し、国軍政党である連邦団結発展党 (以下「USDP」といいます。)が連邦議会において約 8 割の議席を占めた。
2015 年 11 月:当時野党であった NLD が両院ともに単独過半数を獲得し、USDP から NLD に政権交代が行われた。USDP は第 2 党となり大幅に議席を減らした(議席数の僅かに 8%程度)。
2020 年 11 月:NLD が前回を上回る大勝利となった。USDP の獲得議席は 6.9%であった。この選挙結果を受けて、国軍関係 者は、有権者名簿に多数の不正があった可能性を指摘するようになった。
4. 緊急事態宣言
(1) 2008 年憲法上の枠組み(第 11 章)
前記 2 の国家統治の枠組みを前提としつつ、2008 年憲法は、例外的な事態として、緊急事態宣言が発出されることを認めてい ます。緊急事態宣言が出された場合、国軍司令官が国家運営のための広範な権限の委譲を受けることになり、国民の基本的権 利が制限又は停止されます。
緊急事態宣言に関する主要な条項は以下の通りです。
大統領は、国家主権を暴動、テロ等の非合法且つ強制的手段を用い奪取しようとする企てが存在した場合、又は、連邦・国 民の分裂及び国家主権の喪失を引き起こす緊急事態が発生した場合、若しくはそれが発生するであろうと判断する十分な 理由がある場合、国防治安評議会と協議の上、大統領令を発出し、国家緊急事態を宣言することができる。大統領令には、 大統領令が国家全土に法的効力を及ぼし、その公布日より 1 年間効力を有する旨規定しなければならない(417 条)。
大統領は、417 条の国家緊急事態を宣言する際、国軍司令官が国内の速やかな原状回復に向けた必要な措置を執れるよ う、立法・行政・司法の各権を国軍司令官に委譲する旨を宣言しなければならない。その宣言がなされた日をもって、すべて の議会は立法機能を停止し、議会は自動的に解散したものとみなす(418 条)。
国権を委譲された国軍司令官は、立法・行政・司法の各権を行使する権限を有する。国軍司令官は、自ら立法権を行使する か、立法権を行使するための自らが一員である組織を結成することができる。また、行政権及び司法権に関しては、適切な 組織又は人物に委譲することができる(419 条)。
国軍司令官は、国家緊急事態が宣言されている間、必要に応じて国民の基本的権利を制限又は停止することができる(420 条)。
大統領は、国軍司令官が自ら委譲された任務を達成できていないことを理由に、国権委譲期間延長に関する申立を行った 場合、通常、右期間を 1 回につき 6 ヶ月間、最大 2 回まで延長することができる(421 条 2 項)。
国防治安評議会は、大統領が 417 条及び 418 条に基づき国家緊急事態を宣言し、国軍司令官へ国権を委譲した後に、国 軍司令官より任務終了の報告を受けた際、418 条に基づく国軍司令官への国権委譲に関する指令を撤廃する旨宣言しなけ ればならない(426 条)。
国防治安評議会は、426 条に基づき国軍司令官への国権委譲に関する指令の撤廃が宣言された日から、6 ヶ月以内に憲法 の規定に従い総選挙を実施しなければならない(429 条)。
国家緊急事態が宣言されている間又は国軍司令官若しくは国防治安委員会が国権を行使している間に、治安、安定、社会 の平和及び法の支配の速やかな回復に向けた所要の措置をとるために結成された地方行政機関、市民組織又は国軍関連 組織がとった公式な措置は、合法的なものであり、これらの措置に対して如何なる法的手段も執ってはならない(432 条)。
(2) 2021 年 2 月の国軍による政権掌握
2020 年総選挙後の国会開催が予定された 2021 年 2 月 1 日、国軍系の副大統領が突如大統領代行として 2008 年憲法に基づ き緊急事態を宣言し、2021 年 2 月政権掌握が実行されました。緊急事態宣言は、同日付け大統領令 1 号という形式をとってお り、以下の通りその判断に至った経緯が説明されています。
「2020 年 11 月 8 日、ミャンマー連邦共和国総選挙は、選挙管理委員会の権限の下に実施された。選挙管理委員会は、そ の任務を適切に遂行せず、自由、公正且つ透明な選挙を確保することを怠った。国家権力の主権は国民に由来するもので なければならないが、自由且つ公正な選挙プロセスの失敗は、ミャンマー連邦共和国の国家主権と国民の権限を喪失させ るものである。政治関係者、民族団体、及び国軍によって提起された申立に対処せず、その後人民院及び民族院(連邦議 会)を招集するのは、2008 年憲法 417 条の違反である。2008 年憲法 417 条によれば、非合法且つ強制的手段は、ミャン マーの主権と民族の団結を喪失させるものである。選挙管理委員会の履行に不満を抱く人々が多く、政府も選挙管理委員 会もその原因に対処しなかったことから、ミャンマー連邦共和国憲法に基づき緊急事態を宣言することは、国軍の否定でき ない義務である。ミャンマー政府は、関係する有権者に対処するため、2008 年憲法 418 条(a)を活用することを決定した。同 条は、立法、司法、行政の権限を国軍司令官に移転することを義務付けている。この緊急事態宣言は、2008 年憲法 417 条 に基づき、2021 年 2 月 1 日から 1 年間効力を有する。」
実際に 2 月 1 日以降、国軍は、矢継ぎ早に国軍関係者を主要なポストに置く等の形での新たな国家体制の構築を進めていま す。ミャンマー国内ではこれに反発する動きとして、2021 年 2 月政権掌握に反対するデモ活動や公務員による職場放棄が広がっ ていますが、国軍は、2008 年憲法 420 条に基づき、国民の基本的権利を制限又は停止する動きも見せています。 また、国軍が新たに設置した選挙管理委員会は、2021 年 2 月 5 日、2020 年総選挙における当選証書を無効とし、選挙での不 正行為について調査を開始すると発表しました。アウン・サン・スー・チー氏については、無線機の違法な輸入や自然災害管理法 違反に関する嫌疑により、ミャンマー国内において刑事手続が進められているとも報じられています。
5. おわりに
以上の通り、2008 年憲法では、(政治的な妥協という意味もあったと推察されますが、)国軍や国軍総司令官に相当な権限を与 えつつ、民主主義国家が想定する基本的な統治の枠組みがとられ、また、過去の総選挙では、複数政党制民主主義を前提とし た選挙が行われ、実際に 2015 年に NLD への政権交代が行われました。他方で、同憲法が、国軍及び国軍総司令官に政治の枠 組みへ関与する権限を定めていたことが、今回の行動の正当化のための根拠を与えることとなったとも理解されます。 確かに、軍人議員が各議院の 4 分の 1 を占め、且つ憲法改正には各議院の 4 分の 3 超の賛成が必要な構造からすれば、2020 年総選挙後も、国軍の 2008 年憲法上の立場は直ちに弱まるものではなかったようにも見え、現に 2020 年 3 月、NLD が提案した 憲法修正案(軍人議員の比率の段階的な削減を含むもの)は、連邦議会において否決されています。 そうだとすると、平和的な方法でない国軍による政権掌握に対して国際社会の厳しい批判やミャンマー国民の強い反対に直面 することが予想できる状況において、2021 年 2 月政権掌握に踏み切った国軍側の真意は、(様々な報道はなされているものの、) 現時点では必ずしも明確ではありません。 2008 年憲法第 11 章によれば、緊急事態宣言の効力が失われた後は、国軍司令官への権限委譲が撤廃され、その 6 ヶ月以内 に総選挙を実施することが想定されていますが、当該規定に沿って実際に総選挙が実施されるかは、現時点では不透明です。 ミャンマーに携わる関係者においては、2008 年憲法が定める国家体制を念頭に置きつつ、選挙管理委員会による調査結果や今 後の総選挙に向けた国軍その他関連当事者の動きにも留意し、事態の推移を注視し続ける必要があります。
